━【アンリ・サルヴァドール】

Henri Salvador & Boris Vian



”フランスの国民的エンタティナー!
フランス・シャンソン界の長老、巨匠アンリ・サルバドール89歳!”
粋、伊達、色男、ダンディ、ヒップ…。いまもなを艶やかな“声”!アンリ・サルヴァドールは太陽のような人。「ひゃーひゃっひゃっひゃっ」笑いで幸福を振り撒くおフランスの花咲爺!
世界でいちばんハッピーでラブリーでチャーミングなじいちゃん歌手!



フランスの国民的歌手、アンリ・サルヴァドールは1917年7月18 日、ブラジルの北隣フランス領ギアナ・カイエンヌに生まれの89歳の現役歌手。その歌声は常に甘美で、軽やかで、しかしながらしっかりと聴き手の心をつかんで離さない。父親はスペイン系フランス人でフランスの収税官吏、母親は現地人のグァドループ人という、クレオ-ル(混血)として生まれる。7歳のときに一家揃ってパリへ移住。それを知るとなるほど、彼の音楽から感じられる大らかなラテンの血とパリの洗練の融合ぶりに納得させられるものがある。



11歳のとき、デューク・ エリントンとルイ・アームストロングに夢中になり、若くしてドラムとギターをマスター。16歳にしてキャバレーで初舞台を決めた後は、ジミーズ・バーのレギュラー・メンバーにプロの道に入る。アンリはここでジャズヴォーカルを歌いながら、持ち時間のなかにスケッチ(寸劇)を挟むことを思いつく。(例えば、彼の笑い芸のレパートリーの一つ「ジン」は、アメリカ人のアナウンサーがジンを飲んで、どんどん酔っぱらっていくにしたがって、ろれつが廻らなくなる様子を演じたもの。客席の方に向かって吐き出すという絶品芸。)



そしてここで、あのギターの名手ジャンゴ・ラインハルト(1910年生まれのジプシー・ギタリスト。)と出会い、雷に打たれたような衝撃を受ける。すぐさま、独学でジャンゴ・ラインハルトのギタ-奏法(ポジション・コードプログレッション・ハーモニーetc)を盗みまくってその奏法をマスターした。彼のグループへ誘われたこともあったという。



『リゴロ』
個性派ぞろいのフランス音楽界で異彩を放つ国民的歌手,アンリ・サルヴァドール。彼が若かりしころに発表した迷曲・珍曲集。冗談なのかマジなのか!?エスプリをはるかに通り越したラブリーな笑いが満載。「リゴロ/Rigolo」たは「滑稽」とか、「オモシロ」という意味。フランス本国でも未CD化の多い"Disque Salvador"~"Rigolo"時代のレア曲をギッチリと詰め込んだ日本独自の編集によるコンピレーション・アルバム。

 

 

1941 兵役を終了、再び音楽の道へ 。レイ・ヴァンチュラの招聘を受けて彼のオーケストラにギタリストとして加入し、そのまま南米へのツアーに旅立つ。しかし、第二次世界大戦は激化し、ナチス・ドイツによるフランス占領の影響で、楽団は3年間もの間、南米に留まる事になった。その間に、アンリはマンボ・カリプソなどのラテンリズムを自分のものとしていった。1945 帰国 。そんな経緯でフランスへのサンバの紹介者となったのも彼だった……。



非常に多芸なサルヴァドールだけに、タップダンサー→歌手→作曲家→ギタリストと活躍の場は広いが、彼の作る曲、そして歌声はどれも一貫してロマンティックで慈愛に満ちている。ジャズの基本とボサ・ノヴァの清らかな色香が織り成す、どこか懐かしく深呼吸のできるサウンド。御年80歳を軽く超えていながら(だからこそ?)、惚れ惚れするほどの男っぷりで聴き手を抱擁してくれるのだから、嬉しいではありませんか。



1950年、パリのア・ベ・ゼ劇場でのレヴュー "Paris S'amuse"で出演中のある夜、アンリは最前列に座っていたうっとりするほど美しい白い服を着た女性に心惹かれる。彼女ジャクリーヌ・ガラバディアンは毎晩欠かさずやって来た。しかし、一向にサインを求めに楽屋を訪れる気配がない。一週間後、アンリはドアマンのフランソワに、彼女を楽屋に連れてくるよう頼んだ。二人きりになった時、アンリは言った。「あなたを32年間待っていたんですよ」。ジャクリーヌ・ガラバディアンとアンリは1950年1月24日に結婚をする。
1976年、四半世紀の長きに渡って公私共に苦楽を供にして来た最愛の妻、ジャクリーヌを亡くす。



『ジャズ! ベスト・オブ・バークレイ・イヤーズ』
オリジナル曲の大半を、当時交流の深かったボリスヴィアンが作詩している。



1946年当時のパリのダンス・ミュージックは、いわゆるニューオリンズ・スタイルのジャズで、戦後、パリの解放とともにアメリカ軍がどっと入ってきて、それと同時にアメリカのポップ・ソング/ダンス・ミュージックが流れ込み60年代はR&Bでもってダンスをしていた。アンリは歌手転向後の50年代中頃には詩人でアメリカのハードボイルド小説、SF、ジャズをこよなく愛するボリス・ヴィアンやミッシェル・ルグランらとコミカルなフランス産R&Rを作り、話題を集める。1956年に発表された、フランスで初めて”ロック・アンド・ロール”を冠した「ロック・アンド・ロール・モップス」を発表。バンド名は、ヘンリー・コーディング(アンリ・サルヴァドール)&ヒズ・オリジナル・ロック・アンド・ロールボーイズ!作詞のヴァーノン・シンクレアはボリスヴィアン、作曲のミグ・バイクはミッシェル・ルグラン。

 

ボリス・ヴィアンはその後も、フィリップス社で音楽ディレクターの職に就き、あからさまな反戦歌「脱走兵」をリリースし、放送禁止にされながらもヒットさせ、また自らも作曲・作詞、しまいにはアンリ・サルヴァドールとのデュオで自作のロックンロール「強烈往復ビンタ」をヒットさせ二人の本格的なコラボレーションが始まる。とにかくフランスにおけるジャズを語るにとってボリス・ヴィアンという存在をぬきにしては語れない。「きれいな女の子との恋愛・・それとニュー・オルリンズかデューク・エリントンの音楽だ。その他のものはみんな消えちまえばいい」(『うたかたの日々』より)という有名な言葉も、ヴィアンのジャズへの憧れを表している。彼はトランペット奏者としてジャズの支持し、またフランスにおいてジャズの鑑定人・紹介者として活発な活動を行なった。アメリカからやって来たジャズは当時最新先鋭なる思想、実存主義によく似合った。ディキシーランド・ジャズからビーパップ、さらにハードバップへと、モダンへの革命期をたどるジャズはフランスのパリ、サンジェルマンでその完熟を果たした。ジャズの持つフリーでヒッピーなパワーがナチスによるパリ占領やその解放のレジスタンスの精神とジャズのインプロヴィゼーションとが根源的に結びついた。

Boris Vian



ボリス・ヴィアン (Boris Vian)

『人間、生活の心配がなければ創作するのはやさしいことだ。だが利子生活者でもない以上、精神的売春をする以外、創作だけで生きていけるものではない。それがいやならほかの仕事をすることだ。しかしそうなるとまた、いろいろ不都合が出てくる。数種の職業を持っていると、アマチュアというレッテルがつく。だがしかし、その世間でいうところのアマチュアが、数種の職業においてそれぞれプロであるとこいうこともありえるのだ。』



ボリス・ヴィアン(1920年3月10日 - 1959年6月23日)は、フランスの作家、詩人である。ヴィアンは1946年からの約十年間、当時フランスを代表するジャズ雑誌だった“JAZZ HOT”誌に無償で評論、ニュース記事、エッセイ等を書き続けた。セミプロのジャズトランペット奏者としても名をはせ、余技として歌手活動も行った。少女クロエの肺に睡蓮の花が咲いてしまう『日々の泡(L'Écume des Jours 曽根元吉訳)』(または『うたかたの日々』伊東守男訳)は、「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な作品」(レイモン・クノーの言葉)と言われて読み継がれている永遠の幻想青春小説、砂漠に鉄道を通す物語『北京の秋』は、ヴィアンによれば「北京」にも「秋」にも関係ないから『北京の秋(L'automne a Pekin)』というタイトルで、前衛的な作風の小説で知られる。1940年代後半に、脱走兵の黒人作家と称してヴァーノン・サリヴァンのペンネームで通俗的で暴力的なハードボイルド小説を執筆していたことでも有名である。ジャズ批評やアメリカ文学の紹介などの分野においても顕著な功績を残した。彼は400曲にものぼるシャンソンを残した。「Le Déserter/脱走兵」という反戦歌を歌って放送禁止になった。ヴィアン自身は、心臓疾患(心臓大動脈弁閉鎖不全症を抱えた病人であった。)のため徴兵を免れる。さすがにセルジュ・ゲンズブールの師匠である。



DVD『想い出のサンジェルマン』
【原案】 ボリス・ヴィアン「サンジェルマン・デ・プレ入門」 【監督】:ジャック・バラティエ【撮影】:エチエンヌ・ベッケル

ジャズとシャンソンが出会う街、サンジェルマン・デ・プレに過ぎし日々ー

ナチスによるパリ占領やその開放により、戦争から解放された人々が自由を謳歌した40年代のパリ6区のサンジェルマン・デ・プレ。ジャズにわき、ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルベール・カミュら実存主義者たちがナチス占領下のパリでサンジェルマン・デ・プレに避難場所を求め地下酒場で気炎をあげ、多くの知識人、文化人、ジャーナリストたちを巻き込んで、打倒ファシズムの原動力になっていた。サンジェルマン・デ・プレは自由を愛する者の集まる聖地であった!



サンジェルマン・デ・プレ40年代の「うたかたの日々」。その中心地は穴蔵酒場「タブー」。その仕掛け人は”ルネッサンス・マン(万能の人)”ボリス・ヴィアン!1947年、17世紀に造られた地下貯蔵庫(カーブ)を改造して、プライベート・クラブを開店しサンジェルマン・デ・プレを流行の街に仕立てあげたのであった。この店には当時の有名人たちが毎晩のように集まり、飲めや歌えの大騒ぎがくりひろげられていた。タブーには、支配人もいなければ、部屋に敷き詰められた高級絨毯も、夜会服もなかった。ダンスホール全盛の時代。ジャズが聴けるというだけでも珍しく、しけた椅子と机だけがおかれた、がらんとした穴蔵だったけれどもそのそっけなさが受けた。タータン・チェックのシャツにバスケット・シューズといういでたちのエクジスタンシャリスト(実存主義者)と呼ばれる若者(穴蔵のどぶネズミとよばれていた)ばかりが、毎夜、ボリスヴィアンのトランペットに浮かれて踊っていた。


-エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」

ヴィアンは十代の頃から熱烈なジャズ・フリークであり、兄弟たちとジャズ・バンドをはじめ、トランペットに夢中になった。22歳の頃にはクロード・リュテというクラリネット奏者の楽団に入ってジャズに興じた。彼の演奏は十分プロとしてやっていけるくらいでこの映画でも再三、トランペットの演奏シーンが観られる。1949年さらにヴィアンは、もう一つのカーブ「クラブ・サン・ジェルマン」を開店、チャーリーパーカー、マイルスディヴィス、シドニー・ベシェらが素晴らしい演奏を繰り広げられていたのだった。こんな、カーブの喧騒に満ちた風景と、ロックに取って代わられた60年代の同地区と対比させながらつづったジャック・バラティエ監督のドキュメンタリー作品です。戦後のパリの穴倉で、飲んで、踊って、愛し合う…パリの才人、芸術家が集まるサンジェルマン・デ・プレの最も活気に溢れていた時代の当時の映像で構成された貴重なドキュメンタリー。サルトル、ボーヴォワール、カミュ、メルロ=ポンティ、コクトー、ピカソ、クノー、プレヴェール、ツァラ、ブルトン、アルトー、ジュネ、グレコ、バディム、エリントン、マイルス…そしてヴィアン!ジュリエット・グレコは、マイルス・デイヴィスのロマンスも、サンジェルマン・デ・プレ、それは魂の村。戦後のパリを彩ったサン=ジェルマン=デ=プレの狂躁の日々が甦る。


-エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」



「脱走兵」

大統領閣下 お手紙を差上げます
時間があれば 読んでいただけるでしょう

私は今 令状を受取りました
水曜日の夜までに 戦地に発て、と

大統領閣下 私は 戦争はしたくありません
可哀相な人たちを殺すために 生まれてきたからではないからです

閣下を 怒らすつもりはありません 閣下に 申し上げなければなりません
私は決心しました 脱走しよう、と

生まれてから 私は 父の死をみて
兄弟たちが出征するのをみて 子供たちが泣いているのをみました

私の母は ひどく苦しみ 今では墓の下にいます
爆撃も気にせずに ウジ虫も気にせずに

私が捕虜だったとき 私の妻を盗まれ
私の魂を盗まれました それに 私のいとしい過去のすペてを

明日の朝早く死んでしまった歳月に
門前払いをくわせるつもりです 私は旅に出ます

フランスの道端で 物乞いをして暮します
ブルターニュ地方からプロヴァンス地方まで 私は人々に訴えます

服従を拒むんだ 戦争を拒むんだ
戦争にいってはいけない 出征を拒むんだ

血を流さなければいけないのなら あなたの血をどうぞ
閣下は 偽善者ですね 大統領閣下

私を追跡するのなら 憲兵たちに伝えて下さい
私は何の武器ももっていないことを
そして 撃ち殺して構わないということを

 

『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』(1946年)
監督:ミシェル・ガスト 脚本:ボリス・ヴィアン 撮影:マルク・フォサール 音楽:アラン・ゴラゲール 
出演:アントネラ・ルアルディ/クリスチャン・マルカン/ポール・ゲール/フェルナン・ルドー/ルナート・ウエール/マリナ・ペトローバ

ボリス・ヴィアンがアメリカ人黒人作家ヴァーノン・サリバン作として発表した小説が原作。この偽名で売れる小説としてアメリカンポルノを3週間で書き上げる。外見は白人にしか見えないが、その実は黒人の子である主人公の無軌道な日々と、白人のセックス・フレンドたちに自らのルーツがばれてしまい、殺人を犯すまでを描いたスキャンダラスな物語。これが爆発的に売れ、スキャンダルとなり発禁。訴訟にまでなり、公然猥褻罪により10万フランの罰金刑。
ボリス・ヴィアンの肩書きを並べてみると…
エンジニア技師、家具デザイナー、自動車修理工、自動車レーサー、映画俳優、画家、ナレーター、ジャズ・トランペッター、音楽評論家、文芸評論家、ジャーナリスト、SF研究家、DJ、イベント・オーガナイザー、音楽プロデューサー、レコード会社のディレクター、作詞作曲家、歌手、詩人、小説家、映画監督、オペラ・バレエ・演劇・映画の脚本家、翻訳家、ペテン師、遊び人(サンジェルマン・デ・プレのプリンス)、反権力思想煽動家。数多くの顔を持った男ボリス・ヴィアン。彼が動き回った軌跡はジャンルの壁を越えていた。ただ、ヴィアンは、「私は実存主義者ではない。事実、実存主義者であれば実存は本質に先立つ。私にはその本質がないのだ」という発言にもあるように、サルトルの実存主義とは一線を引き、あらゆる主義、運動から自由であろうとしていたのです。

 

ルイ・マルは、映画「死刑台のエレベーター」が完成し、さて音楽をどうしようかというその時に、自身のクインテットを一旦解散したマイルス・デヴィスが単身パリに来ているという事を知り、友人であるボリス・ヴィアンに紹介を頼んだのでした。マイルスは49年5月に初めてパリへ渡り、ジュリエット・グレコと激しい恋に落ち同棲生活を送っていた。マイルスは映画の試写を見て「やる気」になり、当時「クラブ・サンジェルマン」で演奏していたヴァルネ・ウィラン以下4人をピックアップして録音する事になったのです。その録音もまた画期的なものでした、スタジオで映画の画面を流し、その画面を見ながら即興演奏し、録音していったのです。映画「死刑台のエレベーター」とマイルスの音楽との完璧なる一体化はこうして実現したのです。マイルスはこの時ジャンヌ・モローにひとめ惚れしてしまったという話です。



ヴィアンは長年心臓に欠陥を抱え、不整脈に苦しんでいた。トランペットを吹くことは心臓病を抱えたヴィアンには危険なことだったが、彼本人は意に介していなかった。むしろ自分で「40になる前に死ぬよ」と常々語っており、短命を予感していたようである。1959年6月23日の朝、論争の的になっていた『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』の映画試写会のため、ヴィアンはシネマ・マルブッフの館内にいた。ヴィアンはプロデューサーと作品の解釈を巡り、何度も衝突してきた。そして、その日もエンドロールで流れる制作関係者名から自分の名を外したがったヴィアンは、この映画を公然と非難した。映画が始まって数分後、伝えられるところによると、ヴィアンはこのように口を滑らせたと言われている。「こいつらはアメリカ人になったつもりなんだろうか?馬鹿にしやがって!」



その直後、急な心臓発作に見舞われたヴィアンは座席に倒れ込み、病院へ搬送される途中に息を引き取った。彼は当時僅かに39歳であった。『日々の泡』、『北京の秋』などすぐれた作品を数多く書くが、アメリカ小説の翻訳と称する『墓に唾をかけろ』(46)を公表したことが筆禍をまねき、結局正当な評価を得ることなく短い一生を終えなければならなかった。しかし、死後数年して彼の文学はコクトー、サルトル、ボーヴォアールらによって再評価され、すべての作品が復刊されるとともに、戯曲の上演、劇作集、詩集、の刊行が相次ぎ、若い読者層から圧倒的人気を受けている。そして、この悲劇のヒーロー像が受け、68年に起きた「五月革命」の時に、若者たちに熱狂的に迎えられた。



「ぼくはスノッブ J'suis snob」

ぼくはスノッブ  ぼくはスノッブ  
ぼくの気に入っている 唯一の欠点
みがきあげるのに何ヶ月  らくな稼業じゃないけれど ハイデガルドと出かけると  人目をひくのは ぼくの方
ぼくはスノッブ  ぼくはスノッブ
ぼくの友達も みんなそうさ  ぼくらは スノッブいいもんだぜ
オーディガンのシャツ  ゼビュウ皮のくつ  イタリア製のネクタイ
虫のくった古めかしい背広  指にはルビー  足の指だぜ!
そいつがちがう  爪はまっ黒  小さくて イカしたハンカチ
スウェーデン映画をみに  映画館にでかける ビストロに寄る
ウィスキーもたんまりのめる  肝臓なんか悪くない  そんなのは もう時代おくれ
ぼくのは 潰瘍さ  こいつは ザラにないし 高くつく
ぼくはスノッブ  ぼくはスノッブ
名前はパトリックだけど みんなにボブと呼ばれてる  毎朝 乗馬に通う
あの馬糞のにおいがたまらない  トロンボーンみたいな名前の  男爵夫人としかつきあわない
ぼくはスノッブ  とびきりのスノッブ
女を抱くときも  中庭ですっ裸 毎週 金曜日になると  友達みんなが集まって
スノビズム・パーティ  コーラもあるけど みんな大きらい
カマンベール・チーズも  小さなスプーンで食べるんだ
ぼくのマンションは  サイコーに イカしてる  ダイヤで暖房
これ以上の夢はない  テレビもあるけど あんなのは退屈
後ろ向きにする  後ろなら夢中になれる
ぼくはスノッブ ぼくはスノッブ
その菌にすっかりイカれてる  ジャガーで 事故をおこす  8月はベッドですごす
こういう厳密なことで  スノッブかどうかが きまるんだ
ぼくはスノッブ  さっきよりずっとスノッブ  ぼくが死んだら  ディオールの屍衣をかけてくれ



CD『ジャズ・ア・サンジェルマン』廃盤
フランスVIRGIN制作のクラシック・ジャズのカヴァー集だが、タイトルにサンジェルマン・デ・プレとある如く、50年代のサンジェルマンの実存主義者、ザズー(フランスのビートニク)達が愛好した当時のオールド・ジャズを中心に選曲されている。なんと!ボリス・ヴィアンの歌う「僕はスノッブ」が収録されている!他、曲目リストをじっくりご覧あれ!
<曲目リスト>
1. サマータイム(アンジェリック・キジョ)
2. 陽気なブッチャーたち(キャサリン・リンガー&レネゲイド・ブラス・バンド)
3. ラヴァー・マン(CHINA)
4. ウォーターメロン・マン(ディー・ディー・ブリッジウォーター)
5. アイル・ビー・シーイング・ユー(フランソワーズ・アルディ&イギー・ポップ)
6. あとには何もない(ザ・ジャズ・パッセンジャーズwithデボラ・ハリー)
7. ジャヴァネーズ(ジャッキー・テラソン)
8. ブラック・コーヒー(パトリシア・カース)
9. ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド(プリンセス・エリカ)
10. ラウンド・ミッドナイト(レ・ニュビアン)
11. 悩みのたね~愚かなり、わが恋(ジェーン・バーキンwithジミー・ロウルズ)
12. キャラヴァン(ブリジット・フォンテーヌ)
13. ソフィスティケイテッド・レイディ(エリ・メデイロス)
14. 僕はスノッブ(ボリス・ヴィアン)





 『サルヴァドールからの手紙』

アンリ・サルヴァドール2000年の現役復帰作!なんと!このアルバム『サルヴァドールからの手紙Chambre Avec Vue』はフランス国内では50万枚を超える売上を記録、全世界で200万枚のセールスを記録する大ヒットに!同時に『Victoires de La Musiques(←フランスにおけるグラミー賞)』で、「アルバム・オブ・ジ・イヤー」と「アーティスト・オブ・ジ・イヤー」の2つを獲得している。
フランスには“バカンス・ミュージック”というジャンルがあるそうな。 まさにそんな余裕綽々な、ウイットに富んだ名作。聴くものを抱きしめ優しく愛撫するかのような、艶やかな声!かのカエターノ・ベローゾさえもオマージュを捧げている。トゥーツ・シールマンス、フランソワーズ・アルディ(アルディ自身もアンリの大ファン!)も参加。



 

(左)『PERFORMANCE!~ライヴ・アルバム』
 2003年3月にCanal+というフランスのテレビ局のスタジオで行われたライブ録音盤!84歳のアンリが放つライヴ・アルバム。ジャズ、ボサ・ノヴァ、ソウルを渡り歩いた男の歴史がこの1枚に凝縮、楽園のフレンチ・ヴォーカルを聴かせる。ビレリ・ラグレーン、ロラン・ヴルジー、リサ・エクダールがゲスト参加。
 
(右)『愛しい君との愛しい時間』

「私も敬愛するアンリさんの新作は、なんて軽やかでロマンティックなんでしょう。愛とユーモアに満ちた本当に素晴らしい作品です。」小野リサ



アンリ・サルヴァドールが86歳にして放つアルバム。アンリさん小野リサのアルバム『DANS MON ILE(ダン モニール) 』にもデュエット参加して本国フランスでも話題になりました。





2002年、9月27日~29日渋谷・シアター・コクーンで奇跡の来日公演!
85歳とは思えないほどの軽快で伸びのある、優しい声。まさに”魔法の粉”をふり掛けられたみたいに観客は魅了されました。







輸入DVD『BONSOIR AMIS』
2004年11月16日、パレ・デ・コングレで行われたライヴを収録したDVDです。特典として、舞台裏映像、ビデオクリップ収録のお宝盤!







































「メドラノ劇場に出演していたラムというコメディアンが大好きで、毎日のように通って、客席で他の誰よりも大声を出して笑っていたんだ。そしたらある日、そのラムが私に目をつけて楽屋に呼んでくれた。そして、キミの笑い声は素晴らしい、キミには人を幸せにする才能がある、って言ってくれたのさ」





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